前回のつづき。
ブルースにおけるホーボーが南部のアフリカン・アメリカンたちだったとすると、フォークにおけるホーボーの主流は、オーキー、すなわち砂嵐のために他州へ仕事をもとめたオクラホマのひとたちだった、ということでいいのだろうか。そういえばアメリカン・フォークの元祖といわれるウディ・ガスリーもオーキーであるが、そういうことなんだろうか。
そのガスリーのファンだったのがピート・シーガーで、このひとはハーバード大中退というから、まあインテリ・ホーボーとおもっていい。このふたりをひきあわせたのはアラン・ロマックスであり、ロマックスは当時ガスリーとレッドベリーの録音をおこなっていたという。
ピート・シーガーがオールマナク・シンガーズをつくり、のちにウィーバーズを率いていく。そのウィーバーズを手本としてPPMやキングストントリオが台頭し、さらに広汎にフォークサウンドを浸透させていく。これをポップ志向のモダンフォーク路線とするならば、もういっぽうは、ガスリーを手本にディランへと向う、新作志向のプロテスト路線ということになるのかもわからない。
すくなくとも、ガスリーのうたにはユニオンらしき思想があるので、その系譜につらなるフォークがパージされていたといわれても、不思議にはおもわない。ピート・シーガーにしてもガスリーにしても、著作がのこっているようなので、安くなったら読んでみようとおもう。
なんせ、さきのレッドベリーとガスリーの録音しかり、ブルースもたどっていくとはやくも40年代でフォーク・バラッドのようなものとぶつかる。フォークもブルースも、どちらかいっぽうというよりは、まじりあっているとみたほうが、妥当なのだろうとはおもう。
こういうのをさらにさかのぼると、チャーリー・パットンやマンス・リプスカムなどの、一連のソングスターたちにつきあたる。ソングスターとは要するにレパートリーのめちゃくちゃひろい歌手のことである。これもめちゃくちゃなことをいえば、オリジナルも演奏する凄腕の流しのひとだとおもっておいてそんなにまちがいはない。
いっぽうではテントショウなどの興業とむすびついたクラシックブルースのながれがあり―アイダ・コックスやマ・レイニー、ベッシー・スミスなどをおもいうかべればいい―、その周辺ではミンストレルやメディスンショー―メディスンショーとはマイケルジャクソンの『Say Say Say』のPVみたいなやつである―があってジャグバンド―むこうのチンドンのようなものである―が躍動しており、またいっぽうでは、各地のバレルハウスを中心に、ホーボーたちがそれぞれに独自のスタイルを編みだしていた。
ブルースの源流はひとまずデルタでいいとして、フォークバラッドのほうはどうなるのだろう。アパラチアがどうちゃら、というのをどこかできいたことがあるが、ヒルビリーのようなものへ向うながれは、どこからきているのだろう。それもオーキーたちなのだろうか。
とにかくアメリカは広すぎる。それにしても、19のときに買ったガスリーのCDは、何処へ行ったんだ?