AIの浸透で音楽業界がどうなっていくかを予想するとき、AIそのものにかんしては、東方のひとたちのほうが圧倒的に寛容であることを認識しておく必要がある。めちゃくちゃなことをいうと、ブッディストは自由意志が否定されてもべつに気にしないが、あちらさんはそうはいかない。なんせ人間中心主義なので、よくわからん機械が意思をもって芸術家を気どるなどというのは、にわかにはうけいれがたいのである。
とはいえ、いつでも現実がさきで、制度は後追いである。われわれは便利さ、快適さ、欲求充足からのがれられない。早晩、作詞作曲家はAIに駆逐され、タイアップやコラボでアニメやゲームにくっつくことによって、かろうじて人間の作家がぶら下がることになるだろう。創作の過程にAIツールがますます用いられるようになり、両者はよくいえばハイブリッド化し、わるくいえば似たような成果物が大量に出まわって、創作の土壌が枯れていくだろう。
無料に勝るものがあるのかどうか、ちかごろ自信がなくなってきた。すくなくとも、技術がすすむにつれ、サービスは無料にちかづいていくというのは、まちがいのないところである。無料にちかづくにつれ、価値もへっていくというのが、音楽にもあてはまるのかどうかが、わたしにはわからない。
今回の変化は、かつて録音物が配信にかわったのとはちがう。媒体がかわるといって括ってしまうには、ちがいすぎる。クリエイターがAIになり、AIはタダでいくらでも成果物を提供してくれるのだから。
そうなったとき、ビジネスの一連の過程のどこに人間がいられるのか、うまくイメージできないでいる。配信であれば、フィジカルをやめて配信から稼げばよく、広告を入れるなりすればよかった。アーティストのチャンネルをつくるなり、配信ライブをするなりして稼ぐこともできた。今度はそのアーティストがいなくなるのである。
AIとハイブリッドになった独自の音楽、古今の名曲をはるかに上回るような楽曲、そういうものができるかといったら、できないとはいわないが、できてもらっても困る気がする。なぜならそれはもはや魔法や呪文の領域になるからだ。バーサクとかメダパニとかラリホーとかプロテスとか、聞くことによって現実にそうした状態変化を誘発するくらいにならないと、音楽だけでは売れなくなっていく。
そういうものがつくれないのなら、無理にAIと作家とくっつける必要はない。音楽はAIにまかせて、そのぶん映像で勝負すればいい。コストもかからないし、何よりらくだ。その伝でいくと、そのうち映像作家もAIに代替されて、じゃあ人間はどこで稼ぐの、というはなしになりそうである。
これまでクリエイティブだとおもいこむことができていた領域が削られ、クリエイティブであることが問われ直す。プロとアマの2極化が起こる。「1億総クリエーター」というキャッチコピーを笑えなってくる。クリエイトの意味が、はっきりと2層になってくる。
純粋につくる、生み出すよろこびを得るために、ひとがアマチュアクリエイターになりだす。素人の手すさびがどんどんふえる。そういうものがどこへ向かうのかというのも、ブログを書きつづけていれば、おのずと明らかになるだろう。
やはりというか、フィジカルに戻ってくる。ヴィンテージ楽器の価値はますます上がり、それを演奏できる人間は、ますます重宝されるようになる。旧世界の化石のような遺物を操れる人間は、むしろレアで、おまけに独自の効果をもたらせるので、各所に宴会芸の仕事が見つかるかもわからない。
実演家の時代がやってくる。みんなもっとつま弾こう。以上、報告おわり。