こころの剛をならわんとおもわば、臆病をならえ。
―坂田金時―
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緊張ばなしのつづき。
「批評されたとき、相手のいいぐさを気にせずに意味だけをすくいとる」というのもtipsのひとつにかぞえていいかとおもう。マイナスのことをいわれると、どういうわけか非難されているように聞こえることになっている。事実と人格はべつものだということを、わすれないようにしたい。
さらにつけくわえるならば、いつも限界とたたかわないというのも、わりと大事なのではないかとおもう。己の限界の範囲内で、自分のしていることに意味をもたせるようにつとめたほうが、結果としてうまくいくケースはおおい気がする。
ラルフ・タウナーのいうとおり、独自性にあまり気をとられる必要はないということに、さきごろようやく気がついた。まったくあたらしいことをしなければ創造性がないというわけでは、まったくないのである。
これはギターにかぎったはなしではないようにおもう。まったくおなじものを再現するのが初手から不可能であり、よしんばそれができたとしても、置かれる文脈がちがえば、意味はかわってくる。それを避けようとするのではなく、むしろあらたな意味をみつけるきっかけとする、それも創造的な態度といえるのではないかと、そんなふうにおもいはじめている。
もっとも、こういうのは例によってかんがえかたしだいなので、そのひとの資質いかんによっては、まったく逆の結論がでてもおかしくはない。真似がものすごくうまいとか、のみこみがはやいとか、技術がたかいひとというのは、独自性というものを、もっとべつなふうにとらえることになるだろう。
それでも、さいごには、フィーリング―クオリアでもインスピレーションでも詩想でもうたごころでもいい―と、それを表現する技術と、表現したものをじぶんで評価できる能力と、かさなりあう3つの領域を、己のなかでどのように展開していくかというところに落着くのではないかとおもう。
とっちらかるまえにおわりしよう。アテー・アマニャン!