ストレイ・キャッツのブライアン・セッツァーは教則ビデオのなかで「もしソロのときに音をまちがえたら、その音を3回連続で弾けばいい。そうしたらそれはもはやミス・トーンではなくなる」といっている。
これをどう受けとるかというのは、例によって考えかたしだいなわけだけれど、正解とまちがいとの距離は、じつは遠いようでちかいものなのかもしれず、大海の小舟のように不安定にたゆたっているものなのかもしれない。
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ロカビリ-つながり、というわけでもないのだろうが、急にガチャガチャとでてきたのでメモ。
曲名は「らんぼうや(仮)」。パターンと運指を確立して、弦をはりかえたらまたもどってこよう。
前回のつづき。
あれからちょこちょことしらべていたら、どうやら戦前ブルースのころにすでにピッチパイプは存在していたのだそうだ。すると調弦じたいはそれほどむずかしくなさそうである。
となると、オープンGにつづく変則チューニングは、単純にダウン系のチューニングであるという理由でオープンDでいいのかもわからない。あとは、3弦だけを半音上げるオープンEの変形も、実践的なようにおもえてきた。
ギターのレギュラーチューニングがどこからきたのかは、まだしらべられていないが、県立図書館に『ギターと出会った日本人たち』(竹内喜久雄著、ヤマハミュージックメディア)という本をみつけたので、借りてきて読んでいる。
それによると、どうやらウードという中東の楽器がギターの起源だそうで、これがシルクロードをとおって琵琶となり、かたや西へむかってリュートとなったらしい。リュートがギターになったということでいいのか、そういえば三味線はどこからきたのかなどについては、継続調査中である。
なお、同書によれば、天正遣欧少年使節が豊臣秀吉のまえでリュートを演奏したという。このあいだ息子の髪を切ったら似た感じになったので、勝手にマンショだのマルチノだのと呼んでいたのだが、まさかおなじ撥弦楽器をひいていたとは。知らなかった。
さらにいうと、日本にギターをもちこんだのは平岡吟舟というひとで、野球をもちこんだのもこのひとらしい。はずかしながらこれも知らなかった。
ざっくりまとめると、明治期の西洋音楽の導入と関連して、日本ではマンドリンがさきに普及したということのようだ。ピアノやバイオリンにくらべて安く買えたのも大きかったらしい。
部活だったり大学だったりカルチャーセンターだったり、あちこちにマンドリンクラブがあるのをむかしから不思議におもっていたのだが、歴史と伝統がふかいということみたい。そこへいくと、ギターが本格的に広まるのは大正にはいってからで、セゴビアの来日が黒船級の衝撃をあたえたという。
私はものごころついたころからクラシックはからきしで、なん度もトライしてそのたびに失敗している。ひょっとしたら無理にオーケストラを聴くより、ギター音楽からはいっていけばよかったのではないかということに、いまごろになって気がついた。おそいyo!
ひとまず図書館でセゴビアのCDをさがそう。以上、報告おわり。