だいたいにおいて、学ぶというのは、よろこばしいことである。
―ドクトル・クロコフスキーー
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大和田俊之というひとの書いた「アメリカ音楽史」を図書館でみつけて借りてきた。似たような興味関心をもっているひとがいるらしい。完全にアカデミックな内容なので、その点はちがうが、こういう本は参考文献がとにかくありがたい。
ひととおり文献をあたるのが当面の目標、これをサウンドから解くのがつぎの目標。ハウツーにまで落としこんで文字に起こすのがその10年後の目標。その過程で自分のプレースタイルを確立する。
こういうのも、プレーヤー兼学者のようなひとがいて、すでになされているようである。ボブ・ブロズマンなどがそう見えるし、もっとプレーヤー寄りになればライ・クーダーなどがいる。
ギター単体ではなく、弾き語りというフォーマットのなかで、うたもふくめたグルーヴでとらえなおすというのが、最終的な目標になりそうだ。ギターのひとはギターのみに焦点をあてがちだし、アカデミックなひとは音階にふれてもリズムにはあまり触れない。
ブルースマンをボーカルとギターの絡み合いやノリのちがいをふくめて捉え、なんなら時系列上に位置づける。意外と場所がはなれていても、サウンド的にはおなじ系列にならぶようなことがすくなからずでてくるはずだ。「だからどうした」といわれても困るが、特定のスタイルの発生条件を推測する手がかりになったりするのではないかとおもう。
結局、民俗学者たちの行う構造的な分類と、実演家がスタイルをひきわけるためにもっている抽斗は、かなりちがうんだよな。それで、うたいびとは、すでにいいたいことをうたっているので、文字にすることがすくなく、ギタリストは何かいうことはあってもギターについてのみいう、そういう構図なのではないかとおもう。
ひょっとしたらこれが極東の島国の一員としての、ひとつのブルースのうけつぎかたになるかもしれないとおもいはじめた。要はうたわれても何をいってるかわからないから、ボーカルをふくめたサウンド面に注力できる。詞についても比較文学的なスタンスでわれわれのつけくわえることはあるとおもうが、それよりはプレーヤーとしての目線が独特になるので、それだけで意味がうまれそうである。
うたもギターも音とタイミングをトレースすることはできても、歌詞の意味はデフォルトではわからない、というのがポイントになりそうにおもう。すくなくとも母語がちがうし、現実面でも切り離されている。直接の当事者でないので、デタッチメントすることになり、発見もでやすくなるかもわからない。
これは、いままででいちばんのドリームプロジェクトかも。アフロアメリカンの精神世界の遺産をかってに継承する。
とにかくつづけていこう。以上、報告おわり。