ブルースのスタイル変化にかんするメモ。第2次大戦後、若いアフリカンアメリカンたちが奴隷制時代をおもいださせるような音楽を聞かなくなり、かわりにインテリホワイト層が文化人類学的な見地からブルースに接触してきた。また、戦争の反動から保守へと向う流れのなかで、古き良き時代の音楽としてカントリーやフォークに焦点があたり、そちらのほうが仕事になるので、なん人かのブルースマンがフォークのカテゴリにちかづいていった。
彼らはフォークミュージシャンの肩書きをのせてヨーロッパでブルースを演奏してブリティッシュ・インヴェイジョンの遠因となったり、本国のフォークムーブメントの母体の一部をなしたりした。彼らとて急にジャズやロックンロールができるわけではないので、おなじやりかたでやっているのだが、聴衆がかわって、意向がかわったのである。
じっさい、上記の動きによってなんらかのサウンドの変化が生じたのかまでは、しらべきれていない。60年代後半以降のブルースロック化やファンク化ほどの影響はなかったようにおもえるが、これも要継続調査。
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閑話休題。このところ、まえにメモしたデイブ・ヴァン・ロンクの本を読んでいる。
どうやら1940年代後半にハワイアンのリバイバルもあったらしい。当時はハワイアンが流行した20年代に青春を謳歌したひとたち、すなわちフラッパーの生きのこりがそのへんにいたので、教わりやすかったのだそうだ。じっさい、ロンク自身の最初の楽器もウクレレで、その後テナーバンジョーを弾いたりしている。
カントリーブルースもそうだけれど、むかしのギタリストたちは、いきなりギターをはじめていないことがおおい。フィドルをやったり手製の1弦スライドを弾いたりハーモニカを吹いたり、そういうところからはじまっている。使用楽器もバラバラなら、ひとに教わる内容もスタイルもランダムである。
これはひとつのポイントのような気がする。要はいきなりメソッドを教わることがないので、いきおい綜合的になる。創意工夫して自分のスタイルをつくりあげていくかたちになりがちである。
ひるがえって、現代では確立されたものを系統だてて教わるか、聞くか、見ておぼえるし、楽器は最初から決めてかかることがおおいし、そもそも自分でつくるひとはほとんどいない。
だから道具とのつきあいかたがわからないのではないかという気もする。道具のことがわからないから一体感をだせない。一体感がでないから楽器の声がきこえない、そういう構図になっているようにおもう。
こうしたことも知識のひとつであり、自分でできるようになれば教養といっていい。たとえばヒップホップのトラックを聞いてサンプリングの元ネタがわかり、ラップを聞いてラッパーの意図を汲むにも知識が必要である。自分でトラックをつくれるようになったり、ラップができるようになれば、それは教養の域に達する。すくなくともわたしはそうおもう。
はなしをもどすと、では道具を知ろうといって、機材にこだわりだすと、こんどは楽器を弾かなくなったりする。機材に逃げるといういいかたがいやなら、メカいじりのほうがおもしろくなったり、音のでる仕組みに興味がいったり、自分の弾きかたのちがいではなく、機材のちがいによるトーンの変化に、関心がうつっていく。ふつうのことだとおもう。
こういうのを塩梅するのはかんたんではない。むかしは最低限の機材すらなかったので、つくって弾くしかなかったが、いまはすてきな機材が大量にあって囲まれており、迷子の状態がデフォルトになっていることも、こうした傾向に拍車をかけているといえるかもしれない。
いずれにせよ、どちらが仕合わせなのか私にはわからない。間口がひろがったのがたしかだというだけである。いきなりギターをつくれといわれてもむずかしいものがあるからだ。
ともあれ、ハワイアンにはなしをもどすと、アーサー・ゴドフリーというひとが、自前のラジオ番組をもっていたらしい。詳細は要継続調査。
以上、経過報告。