・・・カウボーイのカントリー。田舎の労働者のカントリー。オーキーたちのカントリー。隠遁者たちのカントリー。ヒルビリー、ロカビリー、そしてロックンロール・・・
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前回のつづき。フォークバラッドどうこうというよりは、ブルーグラスという補助線をひけば、もうすこし輪郭をつかめそうな気もしてきた。
フォークバラッドをとりあえず語りものとしてかんがえると、1900年以前どころか、ずっとむかしから存在し、ブルースにひきつけていえば、それはソングスターたちによって語られていた。カントリーの分野では、1950年代後半あたりから、歴史的事件や史実を語るスタイルが、はやったりしていたらしい。詳細は要継続調査。
どうやら1940年代をつうじてカントリーミュージックの流行があったのは事実のようで、とくに大戦後にカントリーブームがおこっている。これは、戦後のアイディンティティ復興というか、保守安定志向のあらわれとみていいだろう。原点回帰というか、古き良き時代へのノスタルジアというか、そういうものとみて、そんなにまちがいはなさそうである。
そのような流れから、フォークのホーボー部分はこぼれおち、カントリーでは、それとは関係ないかもしれないが、ブルーグラスがうまれた。ブルーグラスじたいは30年代からあったようだが、どうやらビル・モンローが旧来のカントリーを刷新してしまったというところがあるらしく、これがひとつには高速化だったらしい。彼以前のカントリーからすると猛烈に速いフレージング、それでいてメロディとリズムパターンはそのまま保持している。
こういうのを聞いておもうのは、たんに高速化してもロックンロールにはならないということ。やはりロックンロールの要件のいくらかはシンコペーションやブルーノートにあるといっていいとおもう。
もっといえば、ひとくちにロックンロールといっても、ブラックネスのたかいものから、カントリー寄りのサウンドまで、グラデーションになっていて、こまかくいえば曲と演者によってちがってくるし、おなじひとでも時期がちがえばノリもちがってくる。まえにあげたカール・パーキンスもそうだった。
つまるところ、歌詞を含めた曲想とメロディとリズムというところに着地するし、どういうものにロックンロールをつよくかんじるかは、これもつまるところ聞くひとによる。
はなしをフォークバラッドにもどすと、フォークというか、むかしの音楽は、受け継がれてきた土地の民の記憶のようなものといっても過言ではないとおもう。いまのひとでも、聞くと無条件にそうしたものが呼び起こされるようなサウンド。したがって、国民的アイデンティティのようなものと結びつきやすいし、はっきりとそうした一面をもつものである。
現代では、じっさいにその土地にいなくても、そうしたものに連なる可能性すら生じているが、やはり風土の差は大きい。それなしにはロマンティシズムになりがちである。
舶来ものの思想が受容先でオリジナルよりラディカルになることがあるのは、風土の経験を共有していないから極端になるのである。塩梅がわからないので、過度に理想化してしまうのだ。
アメリカの山間部のひとたちがむかしから受けついできた音楽を措定しようとしても、とにかく広いので、伝統的な生活様式と信仰をまもって暮らしている山岳の民など、いくらでもいそうである。それらが賛美歌由来の古風なサウンドに直結するのかどうかまでは、私にはわからない。すくなくともブルーグラスの旋律はグレゴリオ聖歌とのつながりで語られていたらしいが、詳細は不明。とにかく連綿と継承されてきたものではあるとおもう。
例によって乱暴につづめると、そうしたヨーロッパ由来のところをツービートにおとしこんで、フィドルをいれ、バンジョーをいれ、ラップスティールをいれ、マンドリンなどの南欧由来の楽器もまじえて編成したのがカントリーで、それを猛烈に高速化したのがブルーグラスととらえれば、多少みえやすくなる気はしないでもない。
なんせフォークに人種も場所もない。ギターがあれば、なくても、ひとがうたえば成立する。フォークバラッドのようなものは、いつでもどこでもとりあえず単体で措定することができる。トルバドールたちをこの系譜にいれることもできるだろう。
いっぽうで、アフリカン・アメリカンたちは、これまでに書いたような経緯で、ブルースを生みだした。ジャズもひとまずこのカテゴリにはいる。
ロックンロールとは、雑にいってこれらのミックスということになるのだろうか。あれ、カウボーイたちは何処へ行ったんだ?