「気に入ったサウンドを作り出すって難しいよ。頭で思い浮かべたのと別のメロディーを口ずさんじまったり、ある時は成り行きでセッションして結局は気に入らない音楽になったりするしな」
―ローウェル・フルスン―(シンコーミュージック『偉大なるブルースの肖像』より引用)
***
アメリカン・フォーク・ブルースこぼればなし。
デイヴ・ヴァン・ロンクによれば、モダンフォークの文脈において、黎明期のムーブメントを牽引していたのはユダヤ系のプレーヤーであったという。フォークソングを土地の民の記憶ととらえると、容易にナショナリズムとくっついて右にちかづくはずなのだけれど、すくなくとも60年代のフォークムーブメントの母体となった30年代のフォークシーン以降、事情は逆になっている。
どうもユダヤ系の移民たちがアメリカ人としての自らのアイデンティティを主張するためにフォークをうたったということらしい。このあたり、アフリカン・アメリカンがブルースをうたったのとすこし似ているような気もする。もっとも、ブルースそのものには、メインストリームに行こうとか、団結しようとか、そういうメッセージはあまりない。
なお、『リズム&ブルースの死』によれば、第2次大戦後まもなく設立されたR&Bのインディーズレーベルを経営したのも、おおくはユダヤ系のひとだったのだそうだ。メジャーどころに割ってはいれなかったのがその理由だという。当時は制度面でのしめつけもあったようだ。
いうまでもなく音楽も立派なビジネスである。社会や権力の周縁に追いやられたひとたちが、中心に向かおうとする力のあらわれ、そのうごきに寄りそうものとしてとらえると、音楽のうつりかわりというものも、理解しやすくなるところはある気はする。
マイノリティが中心に向かおうとすれば左に寄っていき、そのまま中心部にはいれることもあるし、そうなったらあとは徐々に保守化して右へちかづいていく。あるいは、中心にはいるまえに、弱体化され弱毒化され吸収されてしまうこともある。ロックンロールはその好例である。
いわゆるブラックミュージックについていうと、戦後になって若いアフリカン・アメリカンがブルースを聞かなくなり、かわりにR&Bが流行りだした。これが50年代にロックンロールの母体をなしたり、ゴスペルとくっついたり、公民権運動とくっついたりして、じょじょにソウルとよばれるようになっていった。
一方ではロックンロールとして白人ティーンの青春を彩り、一方ではソウルミュージックとしてアフリカンアメリカンのアイデンティティをもとめる気持を代弁するようになっていったわけである。現在ではソウルのそうした役割はヒップホップにとってかわられて、どちらかというとサウンドだけがファンクとともに生きのびているようにみえる。
R&Bのサウンドにかんしては、エレキベースの果たした役割がおおきかったようだ。なお、『ザ・ブルース・ブック』によると、ギターのエレキ化について、リッケンバッカーが1932年にエレクトロ・スパニッシュギターを発売しているが、販売数は数百にすぎなかったという。
ギブソンがES150を発売したのが1936年で、これはチャーリー・クリスチャンがつかっていたらしい。冒頭に引用した『偉大なるブルースの肖像』では、ロバート・Jr・ロックウッドが、1939年にモンゴメリー・ウォードの通販でデュアルモンド社製のピックアップを入手したと語っており、チャーリー・クリスチャンもそのころにエレキでレコードを吹き込んでいてエレキギターのはしりだったと語っている。
すくなくともエレキ化にかんしては導入はギターのほうがはやかったということらしい。ベースについては、ひょっとしたらフェンダーがプレシジョン・ベースをだす前後ということになるのかもしれない。ピックアップをつければOKのような気もするので、エレキギターができたらベースもいっしょにエレキ化しそうなものだけれど、このへんは要継続調査。
なんせ、テクノロジーが進歩したり、天災や人災やさまざまな理由でひとびとをとりまく環境がかわることで、あらたなサウンドが生まれ、それが世のなかのうごきとむすびついていく。これが逆になってもいいことはあまりない。
はなしをもどすと、ゴスペルとR&Bをむすびつけたアーティストとしてレイ・チャールズは外せないし、サム・クックももとはゴスペルシンガーである。とくにサム・クックについては別の機会にまとめたい。
以上、報告おわり。