どういうわけかノウズイにピンピンと来ねえんだ。
―殿山泰司―
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むかし、週刊少年マガジンに『中華一番!』という料理バトルマンガがあり、そのなかに「舌覚疲労封」という技がでてきたのを、いまもおぼえている。審査員が相手の料理を試食するまえに、それと相性のわるい濃い味の品をだすというものだった。
こんなふうに、感覚というものはあてにならない、とまではいわないが、よく働くときもあれば、アッサリ麻痺してしまうときもある。かといって数値化してもこぼれおちてしまうから、話は少々ややこしい。
つまるところ味は好みである。相手のある場合にかぎり、押さえておかえなければならない部分がでてくるというだけである。
私は、食レポを参考にするときは、文体をみる。とくに、自分と語彙の似ているひとをさがす。おなじことばでちがう味を指していることもあるものの、ことばのえらびかたがちかいひとは、感覚もちかい可能性がたかいからだ。
とくにマイナーな表現が自分と一致しているひとをさがすと、外れにくい気がしている。また、それとは関係なく、読んでグッときたひとの記事を参考にすると、外れても悔いはのこりにくい。
音については、試食ではないが、試奏動画なりで聴くことができるので、食べもののときより条件はだいぶいい。その場合でも、自分とスタイルのちかいひとの演奏をきくか、単純にグッとくる音をだしているひとのいうことをきくようにしている。
おもうに、なんでも好みですませてしまうと、そこでストップしてしまう。谷川俊太郎が、かつての前衛詩について、「その表現が詩に効果をあたえているかどうかを作り手に問うても、それをつかいたいという理由でつかったといわれてしまうと、それで話がおわりになってしまうので、じょじょにその世界から離れていった」というようなことを、どこかに書いていた記憶がある。
音も味も似たようなものではないかとおもう。共通の土台のようなものがある。数値で示せるものもあるし、数字としては多少あやしくても、歴史的に合意されていることがらもある。
すなわち、実際は味や音にそこまで関係がなくても、うまく権威づけをすれば、価値をたかめることができる。それは放っておけば重みを増して、ますます価値が上がるようになっている。伝統という名のブランディングである。
こんなふうにみてくると、感覚というのはあてにならない、というよりも、コーヒーや真空管アンプとおなじで、われわれが定量的な「良さ」だけをもとめているわけではないことを示唆されているような気がする。
当たり年でないワインをあえて選ぶ行為もそうである。それは、不作の年の大変さを味わうために、呑むのである。作り手に敬意を払うために、襟を正して、呑むのである。
状態のわるいビンテージ機材をあえてそのままつかうのも、それとすこし似ているようにおもう。それは楽器というよりアンティークにちかづいており、ワインとちがって、つかってもすぐにはなくならない。したがって、音とは無関係に、オリジナルの状態を保っていること自体に価値が付着してしまっていることもおおい。
しかしながらそれでも、そうした要素を含みつつ、それらをこえて、その楽器は「いい」のである。数値的に良くなくても、じっさいそこまで良くなくても、パーツをとりかえればもっと良くなるとわかっていても、使い手が「いい」とおもえば、それはそのままで「いい」のである。
「いい」とおもう器をつかうと、じっさい、いいことは起きやすくなる。「いい」とおもうところからインスピレーションがやってくるからだ。首をかしげているうちは、そういうものは生じにくい。
良さをわかったうえで、己にとって「いい」ものをもとめる。ひととはそういうものではないかとおもう。ほんとうかyo!
P.S. 『中華一番!』はいまも新シリーズ『中華一番 極!』を連載中である。以上、報告おわり。