読書ばなしのつづき。「行間にうまくわりこめるようになれば上級者」というのをおもいついたのでメモ。
***
行間つながりで、ピッチのはなし。あがりきらない、というだけではなく、たかいところからおりていくうごきをわすれないようにしたい。これもブルーノートの罠ではないかとおもう。
メジャーになろうとしてなりきれないところにブルースフィーリングがうまれる、という巷間のことばを聞きながして、聞こえた音にしたがってひいたほうが、フィーリングもでやすい気がする。
端的にいって、音と感覚のあいだに、それいがいの文脈からの説明は、じゃまになることがおおいとおもう。当時の社会状況がどう、とか、歴史的状況がこう、といったようなことがらは、メロディの音程の微妙な変化には、はっきりいって関係ないんじゃないのとおもう。
しいていえば、いいギターが手にはいらないとか、ボトルネックのかわりにナイフをもちいているとか、アンプがないのでリゾネ―ター・ギターをつかうとか、弦高があってテンションもつよいためにベンドはあまりできないとか、そういった技術的な制限要因をなしているようにおもう。
むちゃくちゃなことをいうと、人文科学というのは、実験科学のまねをして、仮説と結論をつけてはいるものの、実験の部分を再現できないので、じっさいは文芸作品と五十歩百歩である。論文も批評もそれじたいが創作であり、そうでないと成立しないというのが人文科学の世界で、これまためちゃくちゃなことをいうと、ひとの書いたものをダシにしていいたいことをいってそれで成立させているのが、評論家という種族なのではないかとおもう。
すくなくとも、じっさいに演奏するとき、そうした学説が役にたつとは私にはおもえない。人文科学は自分科学で、学説は楽節であるとしても、それがネタにしているサウンドには、かならずしもあてはまらない。適用できるとしたら書いたひとと、よくてその一派だけである。
読んでから演奏にフィーリングがでたとか、グルーヴ強度がたかくなったとかいうことがまれにあったとしても、それで急に手先が器用になるわけではないし、ピッチを自在にあやつれるようになるわけでもない。すくなくとも、そういう目的で演奏にかんする技術書をもとめるのは、宝くじを買うのとかわらないとおもう。
つまるところ、好きなものを、自分の興味にそって、好きなように読む。それがいいし、それしかできない。気づきをうながすのはあまりにむずかしい。いつでも気づき待ちだし、気づかないことは、いつまでも気づかないままである。
しいてブルースにかんしていえば、インタビュー集などのほうがだんぜん読みやすい。自叙伝をかくようなジャンルなら、それもいいだろうが、ブルースマンはあまりそういうことをしない。曲のなかでうたっているからだ。
ブルース関連の文献についてはまたこんど。以上、報告おわり。