「ぼくは普段からものごとの完結にはほとんど興味がない。ものごとの完結、それはある意味で死を意味するが、死の観念が存在するのは、むしろ完結へのプロセスにあると思う。死を見つめることは、生の証であり、生こそ死へのプロセスにほかならない。」
―横尾忠則『未完への脱走』―
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形式美、様式美、そういう手つづきのなかに自分を埋めてしまうおもしろさがあるのである。だからみんながみんな破天荒なことをする必要はないし、そんなことをするのはわかっていない証拠である。
ぶっとんだことというのは一回こっきりである。いちど跳べるとわかったら、あとは二番煎じだ。はじめから咲いているのはいいが、みんな咲いていたらそれが普通である。
すごい毒素をもつとか、異様な色彩だとか、そういうサムシングがないと、だれもおどろかない。見方をかえると、アマチュアイズムの浸透というのは、わるい意味の平等主義とかんたんに同一視されてしまうので、この点に注意が必要である。
べつないいかたをすれば、アマのレベルが下がるとプロのレベルも下がる。わかってくれる人間がいなくなるからだ。
料理人が手を抜くのとおなじである。客が味をわからなければ一生懸命つくらなくなる。職人にしても同様である。つかえるひとのいないものをせっせとつくれるひとというのは、職人のなかでもおおくはない。
これも見方をかえれば、気づいてもらえなくても自分の仕事を裏切らないひとというのは、一流であるといっていい。そういうひとは、自らの仕事をわかってくれる客を大事にするし、その客のために結果的に超一流の仕事をする可能性をもっている。
そういう意味では、アマがアマであることに安住しないで、すこしずつでも精進することで、結果として文化をまもることにつながるのではないかとおもっている。そこまで大げさにしなくても、好きなことを一生懸命やって、つまらないものをつまらない、まずいものをまずいと感じられれば、それで十分なのではないかとおもう。それをおもてにだすかどうかはまた別の問題である。
以上、報告おわり。