あそびはまなびで、まなびはまねびで、まねびからスタイルがうまれる。ほんとうかyo!
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ちかごろは著名なアーティストがYou Tube配信をしていて、ただでライブを観られるような感覚になっている。おすすめに内田勘太郎氏のチャンネルがでてきておどろいた。すごいぞアルゴリズム。
ずいぶんむかし―20年ちかくまえだ―、表参道でライブを観たおぼえがある。勘太郎氏のギターをはじめて聴いたのは、ギターマガジン2000年12月号の付録CDだった。ここで紹介されているパッセージはいまだに弾けるようになっていない。進歩がないyo!
クラプトンからブルースにはいったものの、どうにもなじめずにいた私にとって、氏のギターの音は、その語り口もあいまって、素朴に、かつ洒脱にきこえた。さいきんになって、当時の号をさがしだして聴きなおしてみたのだが、やっぱりいい。
あいかわらず弾きこなせないが、なんというか、何がどうなってこうなっているかというのは、20年まえより格段にわかるようになっている。10代のころは譜例どおりコピーできないことにガッカリしていたが、いまはそもそもコピーしようという腹がない。自分にできるところまで簡略化してしまうだけである。
「コピーしようとして、マネしきれない部分がオリジナルになる」ということばをどこかで読んで、まるで賛同できないとおもっていたのだが、数十年もたつと、こだわりもなくなってくるというか、節操もなくなるというか、そのへんの消息をあまりかんがえることがなくなっている。奇しくもこの号に例のラルフ・タウナーのインタビューも載っていたのに、こちらはまったくスルーしていた。
いまは耳だけはむかしより音楽的になっているので、何をどうするかで迷うことはあまりない。技術的な制限に沿って、できるだけかんたんに、それらしくならなければキーをかえ、チューニングをかえ、スライドバーをつかう。要はチマチマ小細工する。
「できるだけ簡単に考える」というのを、私は将棋の羽生さんの本でまなんだ。このあいだのKISSもそうである。
「下手な考え休むに似たり」というが、実践においては、もっているものでどうにかするしかない。岩登りにおいて、その場で急に保持力があがらないのと同様である。
いっぽうで、複雑な事象を複雑なまま処理してしまえるひとというのが世の中にはいて、そういう羽生さんのようなひとにいわれてようやく「ああそうか」とおもう。実際はまるでわかっていないのかもしれないが、なんとなくひとりぎめにきめて居る。
Simple is bestかどうかは知らんがSimple can be harder than complexということでおわっておこう。勘太郎氏の音楽についてはまた今度。アディオス!