ドバラダ飛空船〜ブルースからハワイまで〜

ギターをひいたり真空管アンプをつないだり

アイネ・クライネ・ナハトムジーク

 図書館があるかぎり私のこころは平和である。

―ドクトル・クロコフスキー―

 

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 「ウェブ上のデジタルは何もいわれなければタダ」といわれたら、音楽CDなどは、それは売れにくいよな。だから、というわけでもないだろうが、このごろのCDの売上は、曲よりはひとに紐づいているから、ひとりでなん枚も買っても不思議ではない。

 

 ファッションのばあいはそういう買いかたはされにくい。いっぽうで、衣服はいつまでも着られないので、定期的に買い換える必要があるとみることもできる。

 

 どちらも、流行をつぎつぎ生んでいかなければならないことにかわりはない。同工異曲でかまわない、そのときどきの話題や意匠をまとっていれば、流行としてプッシュできればそれでいい、とはいえ、それでも曲はちがっている必要があるし、曲にパワーがなければ、やっぱりお客はついてこない。

 

 はやらせて、たくさん売って、たくさん売ると安くなって、安くなるとみんながつかって、みんながつかうと飽きてくる。そうして価値がさがったら、また新しいのを投下する。そのくりかえし。

 

 逆に、さっさと古くなってもらわないと、つぎのヒットをだすことができない。偽ブランドなどはその点、おおいに役にたっている。フェイクが出まわることによって、デザインの目新しさをすみやかになくし、かつ、ほんものの仕上がりの良さを逆説的に際だたせて、ブランディングに貢献する。

 

 偽ブランドメーカーはもうかるし、消費者も満足するし、つぎのアイディアを考えなければならないデザイナーいがいは、みんなハッピーに見える。これで当のデザイナーがプレッシャーをたのしんでいるようなら、非ゼロ和ゲームで、いうことは何もおもいつかない。

 

 

 衣服はまだ、すりきれたりボロボロになったりしていくが、音はどうだろう。曲はふえるいっぽうで、デジタルファイルなら、いつでも、いつまでも、聞くことができてしまう。

 

 それでプロモーターはアーティストにコンサートをさせたがり、チケット転売がさわがれたり、ホールをめぐる問題が浮上したりしている。物販は上述のとおり投げ銭の変形になっており、曲うんぬんというよりは、それに付随したアーティスト自身の魅力におかねを払う恰好になっている。

 

 もっと飛躍すると、これだけアマチュアがふえてくると、そのなかだけで自足できてしまいかねない。アマチュアのほうが数は圧倒的に多いし、身近な共感という意味ではアマに分があるとさえいえるからだ。

 

 プロのパフォーマンスはどうしてもパッケージ化されるが、アマゆえの自由さ、シーンへの立場と責任のなさからくる奔放さが、そのまま魅力となる。デモテープを聴くような、メイキングを観るような、生成過程を共有するおもしろさがある。おまけにそれらはぜんぶタダなのだ。

 

 アマチュアがどんどんふえて、受け手もそれでじゅうぶんに満たされてしまうと、従来のような業界による価値の囲いこみが通じなくなり、ヒットをヒットとして、名作を名作として、一級品を一級品として買わせることが、ますますむずかしくなってくる。

 

 今後、AIによる作曲が一般的になっていくと、職業作詞家の時代がおわったように、職業作曲家の時代も、すたれてしまうかもわからない。AIの生成したBGMで日常の用が足せるようになって、あと半世紀もして20世紀後半のヒットソングのライセンスがフリーになったら、いったいどうなるのか、ちょっと見当もつかない。

 

 ひょっとしたら数世紀前の状況が再現されるかもしれない。パトロンが復活して、宮廷音楽家のようなポジションが復活するかもわからない。音楽家のシャーマン的な役割が再度脚光を浴びる可能性もある。

 

 兎にもかくにも、これからの芸術家は、プロとしてやっていくのはますます大変になりそうだ。以上、報告おわり。