【失見当識】・・・現在の時間・場所・周囲の人・状況などが正しく認識できなくなること。意識障害や痴呆などであらわれる。
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音楽は時間にそって進行し、おわる。テンポ・チェンジやリタルダンドやルバートはあるにせよ、音楽ははっきりと時間芸術である。BPMという時計がセットされ、演奏家と聴き手がそれを共有する。
書物でも事情はおなじで、いわゆる日常の時間ーそこに読み手も暮らし、書き手も日々を送っている―とはべつの時間が、存在している。音楽のそれとはことなるもの、よりダイナミックに逆行し、ツギハギできるもの、本質的にはおなじだが、より規制がすくなく奔放なものが、作品のなかに組みこまれている。
文学のほうがしばりがゆるく感じられるのは、芸術様式よりはむしろ鑑賞形態のちがいにあるように私にはおもわれる。いってみれば、本はとばし読みできるし、ひろい読みできるし、好きなところでとめられるし、またはじめられる。ゆっくり読むことも、はやく読むこともできる。生演奏はこうはいかない。
いっぽう、絵画や彫刻は、作品内に時計はセットされてはいるものの、ふつうその針はとまっている。それは鑑賞者によってねじを巻かれてはじめてうごきだすもので、作品が作品として完結するまでに必要な時計とはことなる。たとえば、絵巻物は絵画のなかでも時間性を意識したものといえるが、それでも映画のように観おわるのに2時間かかったりしない。何百ページもの長さにわたる小説にくらべたら、あっというまにおわってしまう。
かくのごとく芸術は多様で、芸術家とひとくくりにするには各ジャンルはあまりにもちがいすぎていた。あらゆる思想にじつはそれほど差異がないように―肝心なのは思想をもつことそれじたいだー、あらゆる芸術にはじつはそれほど差異がないと喝破するには、私の知性はあまりにも貧弱にすぎた。
私はあきらめて外をみた。遠くからエンジンの音がきこえ、パトカーがいち台、こちらへ走ってくるのがみえた。彼らにさよならをいう方法は、まだみつかっていなかった。(この項了、次回につづく)