リズムとタイムばなしのつづき。
「訛りって何?」と家人にいわれたのでメモ。説明がへたなのか、実例がへたで伝わらないのか、どうも両方らしい。ちゃんとわかっていないってことなんだな。
リズムの訛りは、たとえばブラジルのタンバリンのような打楽器ーパンデイロというそうだーを叩いてみると体感できる。むこうの叩きかたでやるとオートでそうなるようになっている。このあたり、楽器が訛りをよんでいるのか、訛りをだすためにそういう叩きかたになっているのか、どちらが先かわからない。どうも訛りの形成というのは、身体的、気質的特徴だけではなく、あるていど偶然によるのではないかという気もしている。
8分音符のイーブン、16分音符の歯抜け、3連符の虫食い、いわゆるシャッフル、そのあとに訛り。
意図的に訛るのはむずかしいので、リズムマシンというか、そういうものをつかったほうがいいかもしれない。要は譜割りにおさまりにくい変則的なリズムが訛りであるといいたい。
訛りとヘタのちがいは、テンポキープできているかどうかと、変則的なリズムすなわち訛りじたいに一定の規則があるかどうかにかかっている。たとえば「不規則にスウィングする」といわれたら婉曲に「ヘタだ」といわれているとおもえばいい。私もそのクチです。
こういうのは、りんごを四つ切りにするとき、大きさが毎回おなじにならないのとおなじである。やきそばをとりわけようとして微妙に具の入りかたや麺の量がちがってくるのもそうだし、食パン一斤をパン切り包丁でわけるといつもなんとなくおなじように不揃いになるのもそうである。
グルーヴにおきかえると、リンゴややきそばやパンはタイムにあたることになる。タイムは固体よりは明白に液体のイメージなので―たとえばレッチリのフリーは自身の教則ビデオでグルーヴを語るときにliquidといっている―、たとえとしてはめちゃくちゃかもしれないが、いっぽうでソリッドなグルーヴといういいかたもあるので、なんともいえない。
要はおなじことをしてもひとによって結果はかわるし、おなじひとでも日によってそのときの状況によって仕上がりはかわり、そうでありつつ、仕上がりには一定の傾向がある、ということをいいたい。端っこが大きくなりがちであるとか、あとについだほうが具だくさんになりがちだとか、芯をよけたところが毎回ワリをくうとか、そういう癖というか、一定の傾向を、訛りといっているだけである。
細野晴臣氏のいう「おっちゃんのリズム」もそうだし、J. Dillaのビートもしかりである。現代のビートメイクに訛りは不可欠ではないかとおもう。(この項了、次回につづく)