芸術は昇華のひとつのありようである。ゲームとはちがい、勝敗はつかない。アーティストそれぞれに独自の位置と評価があるだけである。
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鳴らしたい音のイメージがあるひとはそれでいい。しかしそんな風にいわれてもイメージがわかないときは「弾いて気持のいい音」と考えればいい。
どうもこの国の人間はマジメなので「練習用の音」だのなんだのといいだして考えこんでしまうところがある。それに侵食されて気持のいい音をだすのを遠慮してしまうのだ。
じぶんが弾いていて気持よくなければ、聞いているひともなかなか気分よくならないということを忘れがちで、ありもしない正しい音や、がんばっているんだから、というところによりかかろうとしてしまう。これ、マジメとちがうか?
話をもどすと、その音はひとりで弾いているときとバンドのなかとで変わっておかしくない。もっといえばその日ごとにちがっていてもおかしくない。必要なのは傾向を知ることだ。好みといいかえてもかまわない。
消去法で考える手もある。「この音ではない」というかたちで近づいていくやりかたもあるだろう。そういえば遠藤周作のエッセイに、英語で「これはなにか」と問われて、なんというのかわからんので、なんでもかんでも「It’s not a bird.」と答える、という話があったような気がするけれど、あまり関係ないかもわからない。
クライミングのムーブでも事情は似たようなものである。じぶんがしやすいムーブで落ちなければそれで成立しており、それで完登できれば正解ムーブになるのとおなじように、じぶんが弾いていて気持よければまずそれは成立しており、それで聞いているひとも気分がよくなるようなら、考えるにつけ加えることはなにもない。
以上、報告おわり。