ドバラダ飛空船〜ブルースからハワイまで〜

ギターをひいたり真空管アンプをつないだり

In Da House

 音楽における無思想性、匿名性はラディカルなメッセージの受け皿になりうる。そこにある律動がムーブメントを鼓舞する。そんなふうに考えると、つかわれない音楽などというものは、どこにもないのかもわからない。

 

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 武満徹の『音、沈黙と測りあえるほどに』によれば、尺八の名人がその演奏において望む至上の音は、風が朽ちた竹藪を吹きぬけ鳴らす音であるという。なんだかよくわからんが、だいたいわかるような気もする。どっちなんだい。

 

 近所の磯で早朝にトランペットを吹くおじいさんがいるのだが、なんとなく気持はわかる気がする。同様に、半島の港では浜辺で尺八を吹きながら歩いているおじいさんがいるが、これもおなじではないかと思う。

 

 自然音のなかで演奏すると、いいのである。なにが、といわれても困る。上記の尺八の名人の言と一脈通ずるものがあるような気はしているが、ただの気のせいかもしれない。

 

 近所の公園で音をだしているひとをみかけたら「このひとは自然に溶けこもうとしているのだな」と思えばいいんじゃないだろうか。ちがうか?