影響をうけるとは、要は真似たことがあるかどうかである。真似たあとに、それを脱却して、痕跡がのこる。それを影響といっている。いわば守破離の離である。
楽器でいえば、真似というのはコピーの先にある。コピーからはじまって、それを自分流に演奏するのが真似である。だからコピーする相手の特徴というか癖というか、構造というかキモというか、スタイルをスタイルたらしめている何かをすくいとることができないと、真似にいたることはできない。
したがって、スタイルそのものがつかみどころのないように感じられるひとは、自分とは縁遠いとおもったほうがいい。そういうものにあこがれがちではあるが、まずたいていは無理筋である。
もっというと、そのようなスタイルをもったひとは、スタイルを固着させないので、よけいにとらえどころがないともいえる。スタイルはスタイルとして定着した瞬間から形式に傾きはじめるが、それをきらっているのだとおもう。
こうみてくると、分析的にとらえるというのは、スタイルをことばですくいとろうとすることで、すくいとることじたいはじつは目標ではなく、すくいとれずにのこるものを浮かび上がらせようとするところに、眼目があるのかもしれない。
端的にいって、つくることによってわかろうとするのと、わけることによってわかろうとするのと、ふたつの方向があるとおもう。それぞれ構成論的、分析的というそうだ。「つくってナンボ」というのは典型的な構成論的発想である。
なお、「やってみなはれ」は、そのひとにとって苦手なほうにくっついてくるようである。以上、報告おわり。