先日、AKAI Proからメールでヒップホップ50周年記念のプロモーションコードがとどいた。はずかしながら、1973年に何があったのか、よく知らない。気になったのでコッソリしらべてみた。
Google先生によると、1973年8月11日、ブロンクスの自宅でDJクール・ハークが2台のターンテーブルをつかってブロック・パーティをしたのだそうだ。バンバータがヒップホップを提唱したのがいつだったのか、訊ねてみたら、これもばっちり1973年だった。
ついでにいうと、バンバータが提唱したズールーネイションは、平和、愛、音楽をたのしむことなどを中心にした一派であり、その名称は南アフリカにあったズールーからきているという。ズールーとはシャカが1816年にたてた王国のことをさしている。
このズールー王国の支配からのがれ、イギリスに保護をもとめる黒人部族が一方におり、他方ではオランダ系住民の子孫であるボーア人たちが、イギリスの支配をのがれるため、多数の奴隷をひきつれて奥地へ集団移動していった。
その結果、南アフリカ各地で黒人部族、ボーア人、ズールー、イギリス人がいりみだれ、数十年にわたって領土をめぐるたたかいが繰り広げられることになる。やがてボーア人たちは奥地にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建国、イギリス領はケープ植民地とナタール植民地として編成された。
もともとは羊毛をほそぼそと輸出する辺境の植民地にすぎなかった南アフリカだが、1867年にオレンジ自由国でダイヤモンドが、1886年にトランスヴァール共和国で金が発見されるにいたって、世界経済においても重要な場所となる。白人移民が急増するいっぽう、各地の黒人社会は制圧され、イギリスは財宝を求めてボーア人政府と対立、ボーア戦争へとつながっていく。
20世紀はじめにはアフリカぜんたいがヨーロッパ列強によって分割され、かろうじて独立をたもったのはエチオピアとリベリアだけだった。アフリカの富はヨーロッパの手でほとんど収奪されてしまったといっていい。
第2次大戦後になると、世界的に民族独立運動がひろがり、アフリカでもつぎつぎと独立国家が誕生していく。そのなかで、南アフリカは最後の植民地国家として国際的な焦点となった。1961年にイギリス連邦を脱退、南アフリカ共和国が成立したものの、アパルトヘイトとのたたかいは1990年までつづき、そのきずあとはいまも癒えていない。
・・・と、おもわず書きつらねてしまったが、別に世界史の勉強をしているわけでもないので、このへんでやめておく。じっさい、ヒップホップでいうズールーに、そこまで深い意味はないとおもう。バンバータが幼少のころにみた映画にズールーがでてきたということらしいが、詳細は不明。要継続調査。
したがって、ジャマイカン・レゲエにとってザイオンがエチオピアであるように、ヒップホップの約束の地がズールーであるとはいいにくい。レゲエのほうはラスタファリという教えに昇華されているが、ヒップホップのズールーは仮説としての国家にすぎないし、ジャーのような王さまもいない。お題目としてラップできればそれでOKである。
巡礼や戒律とは無縁のヒップホップをあえてヒップホップたらしめるものがあるとすれば、それはシステムに対する反抗であり、成り上がりと下克上であり、ふりきれた拝金主義であり、そのために必要なスキルだろう。球技選手―いわゆるBallerである―のような能力がなければ、別なかたちで恰好よさをアピールするしかない。
そんなスーパーハングリーな連中がうみだしたのがヒップホップカルチャーであり、それはサラダボウルのなかでもみくちゃにされてなお生きのこったものだから、恰好よくないわけがない。ある場合にはそれは恰好よさをとおりこして突飛であるのが通例でさえある。
ひととちがうことをする、システムを敵視するという点では、ヒップホップもパンクであることにかわりはない。現代においてパンクスが成り上がろうとしたらラッパーになるとかんがえても、あながち的外れではない。
なんせヒップホップといえばDJでありスクラッチでありMCでありラップでありB-Boyでありパーティでありファットキャップでありグラフィティである。グラフィティはとうに市民権を獲得し、B-Boyたちのダンスはいまやオリンピック種目となった。For the times they are a-changing.
なお、8月11日はヒップホップの日なのだそうだ。以上、報告おわり。