音楽はかつて特権的なものだったが、譜面―レコード―CD―インターネットという、広義の複製技術の進歩にともない、すくなくとも表面上はだれでも演奏できるものになりつつある。
そのむかし、音楽は完全にその場かぎりのもので、演奏できる人間もあまりおらず、音楽は演者の存在とつよく結びついて、畏怖の念とともに受け入れられていた。それは祭礼かそれに準じた場面で用いられ、日常で触れる機会はなく、演者も普段はコミュニティからはずれがちの存在であった。
その音楽には、ベンヤミンがいうところの力強い「アウラ」があったはずだ。音楽の魔、といってもいい。このとき、音楽に対する報酬は、すくなくとも金銭というかたちでは存在しなかった。ひょっとしたら、報酬という概念じたい、なかったかもしれない。
このアウラが、いっぽうでは金銭で購われることで変質し、またいっぽうでは複製技術の進歩により希薄となって、ある面では聴き手に求められさえしなくなった。楽曲が創作者からはなれて、解釈の自由が増大して、豊穣に多様になった反面、アウラがうすく拡散して見えにくくなったというのが、音楽をとりまく現状であるように私には思われる。
そんな風に考えると、音楽のもつ価値というのは、存外不安定なものなのかもしれない。それはひとが与えるものである故に。まったく、こんな当然といえば当然のことにいまごろ気がつくなど余程アホだが、それでも気がついたのは良いことだ。
そして、ひとの与える価値が不可避に揺れるものだとしても、アッサリ割りきって傍観を決めこむには、おそらくまだずいぶん早い。音楽の魔は依然として存在してある。気づきにくくなっただけだ。(この項了、次回につづく)