うっすらヒップホップばなしのつづき。
私は、ヒップホップといわれると、80年代後半からイメージしてしまう。すなわちランDMCであり、adidas―アッディーダース―のスクラッチメンであり、その後のネイティブ・タンであり、トライブ・コールド・クエストであり、J・ディラにたどりつく。
とくにTCQはいい。2枚目の『Low End Theory』など白眉だとおもう。2回買っているので、相当好きといっていい。ロン・カーターじたいはそんなに好きだとおもったことはないのだが、こないだの『Wave』もそうだし、いろいろなところでこのひとのベースをきいている。
これがまたいろいろなところにでてくるんよね。ウィスキーのCMにもでていた気がするがさだかではない。
さておき、J. Dillaのビートである。この訛りを抽出して、手びきであらわすというのも、目標のひとつにかかげたい。これにかぎらず、要は気に入ったビートをどうにか自分でだせるようになりたい。
のぺたんと生きてきたせいか、どうもテーマを自覚するのがおそい。ふつうならスポンテイニアスに、同時発生的に取り組まれるべきものが、片方ずつになっているから、結果的に倍以上の時間を費やしている。慣れているときにとりくめばいいものを、そのときはよくわかっていなくて、いざテーマがみつかると、手わざはほとんど失われているという按配である。
いつでも新鮮でいいといえばきこえはいいが、鉄を熱いうちに打つことができないとこうなるという、わるい見本の代表のようになっている。
イタリアはナポリの仕立屋さんは、ジャケットとパンツとで専門がわかれているそうである。べつに両方できないわけではないのだが、片方を極めるだけで寿命がきてしまうのだときいたことがある。そんな雲の上までいけなくても、からだがうごくうちに、どうにか格好のつくところまでいきたいものである。
フィジカルが仕上がって時間も充実しているのに、意外とグレード更新を真剣にかんがえなかったり、岩からはなれているときにかぎって、目標が差し迫ったものとして自覚されたりする。行ったきり帰ってこられないというわけでもないのに、どこか半端にしてしまう。むかしからそうだ。
こういうのは移り気というよりは、もろにアマチュアイズムの発露だろう。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のなかでDJが「Live free, don’t join」 とうそぶくシーンがあるが、あとづけで影響されている可能性も否定できない。こんなのはロマンにすぎないし、およそ建設的でもないし、同意できないとおもいつつ観ていたはずなのに、どうしたわけか結果的にそうなってしまっている。
ちいさなころからあまりなんども天邪鬼といわれつづけたから、一周まわってそれにもなりきれなくなっている。すなわち、そっぽを向きながらターゲットに手をのばす。こどもが素手で蜻蛉をつかまえようとするようなもので、たいていはするりと逃げられてしまう。
畢竟、大人なりの創意工夫をかさねていくほかないのだろう。これも、再訪や再読や反読や反芻と、似たようなものかもわからない。
かんがえは深化されない。ただ表層をなぞるだけだ。むしろ営み自体をおもしろがれるのが大人なのではないかという気もする。
なんせ自分でたしかめるだけだ。ここは自分を実験台にした研究室なのだから。以上、報告おわり。