あれからも図書館でぼつぼつハワイ関連の書籍をあたってみているが、やはりというか、ひとによっていったり書いたりしていることがすこしずつちがう。古代ハワイに文字は存在していなかったので、正確にたどるのはむずかしいようだ。
むかしのハワイでは、物語を伝えるのに、チャントが用いられていたという。これは日本の祝詞のようなもので、ハワイ語ではオリとよばれる。
ハワイに文字がなかったのは、たぶん必要がなかったからだろう。彼らにはチャントとオリ、そしてメレ(唄)があれば、それで十分だったのだ。
ハワイじたいは、1778年、クック船長に発見されてのち、1810年にカメハメハ一世が統一したものの、まもなくフランスやアメリカの脅威にさらされるようになり、そのなかで英国とのつながりを保ちつつも、さいごにはアメリカに併合される、という経緯をたどったようである。はじめは白檀(ハワイの中国語名が「檀香山」なのはこのため)、つぎに捕鯨、それから砂糖産業という順で経済的に潤ったが、どれも独立を保つまでには至らなかった。
じっさい、砂糖産業を発展させるための人手が足りず、まえにでてきたカラカウア王が、世界周遊という名目で移民の候補地をへめぐっていた、との記載もあった。そのなかに日本もはいっていて、西南戦争のすこしあとに来日していたそうである。
ポルトガルからの移民がブラギーニャをもちこみ、日本からは官約移民があり、1900年から1901年にかけてはプエルトリコから5,000人が移り住んだ。すべてサトウキビ産業に従事する労働者であった。
ハワイのプエルトリカン・ミュージックは「カチカチ」で、われらが盆踊りは「ボンダンス」である。先日、TVでハワイの暮らしを特集していて、ボンダンスの場面があったが、そこらの田舎よりもはるかに本格的にみえた。カチカチがプエルトリコ本国でもはやみられないのと似たようなものかとおもわれる。
白檀、捕鯨、サトウキビ、パイナップルときて、現在はコーヒー。観光立州で、収入第2位は軍事産業。激動の歴史をいまもうねりつづけるマルチエスニック社会。それがハワイ、ということのようだ。
いままで読んだ資料のなかでは『ハワイを知るための60章』(山本 真鳥・山田 亨編著)と『あなたの知らないハワイ・知りたいハワイ』(島津 哲著)がとくに参考になった。前者はアカデミックより、後者は実務関係者の視点でまとめられている。前者をよむと近現代のハワイを俯瞰でき、後者をよむとハワイ史を正確に語ることのむずかしさが首肯される。
筆者の興味は主として音楽にあるので、概要をつかむことを念頭に資料をさらっているが、それでも話はつきない。なんだかんだいいつつ、おおぜいのひとがハワイにでかける理由が、すこしわかってきたような気がする。いちどは己も行ってみたいが、いつになるやら。
日本とハワイの関係についても、ちかく備忘録としてまとめたい。以上、経過報告。